*01. 家出


 もう我慢できない。あんな家、今すぐ出て行ってやる。
 怒りを鎮めてなんとかいつも通り登校しようと電車には乗ったが、イライラは収まるどころか時間が経つにつれて募る一方だった。高校の最寄り駅よりも3つ手前で途中下車して、すぐに到着した電車で今通ったばかりの方向に引き返した。
 決して今朝の出来事だけではない。長い間ずっと、継母とは折り合いが悪いのだ。
 両親はわたしが幼い頃に離婚した。その直後、わたしと2つ年下の弟は母親と一緒に暮らしていたのに、小学2年生の時にわたしだけ父親に引き取られた。そして翌年に父が継母である友梨ゆりさんを連れて来て、その後すぐに片方の血だけが繋がった妹が産まれた。物事がただ淡々と過ぎていき、わたしはまるで映画を観ているような気分だ。わたしというキャスティングがない物語がもう何年も目の前で繰り広げられている。
 いつも使っている駅の1つ手前で降りた。今真っ直ぐ帰宅したところで継母と鉢合わせるのは目に見えている。彼女がパートに出かける10時頃まで近くのファーストフード店で時間を潰すことにした。
 最初に目に留まった朝限定のメニューを注文し、一番死角となり得そうな席に腰を下ろす。店内にはちらほらとお客さんがいるが、この時間帯にしては多いのか少ないのかはわたしには分からない。ただ、サラリーマンやOL風のスーツを身に纏った人を見ていると、早く自分もこの学生服を脱ぎ捨てたいと強く思う。
 普段あまりファーストフード店に足を運ぶことはないけれど、昔からファーストフード店はわたしにとって異空間だった。継母の教えでスナック菓子などのジャンクフードや炭酸飲料は一切禁止されていたので、その禁止されていた食べ物が溢れているファーストフード店はまさにわたしには秘密の花園のような存在で、ここに来る度に自分が禁忌を犯しているような気がしていた。
 でもあの頃と今では少し違う。そして昨日と今日だって同じじゃない。わたしは枷を壊すことに決めたんだから。ずっしりと重くて、わたしに危害は与えないけれど自由にもさせてくれない。時間を待つのはもうやめたのだ。
 考えていたら居ても立ってもいられず、思わず立ち上がってしまった。トレイの中にはまだ1、2口サイズのマフィンと飲みかけのコーヒーが残っている。誰も見ていないと分かっていながらも、俯いて静かに座って残りの物を口に入れる。嫌いな食べ物だって残さずに全部食べる。これは父、継母、そしてわたしの実の母から教わったこと。ちなみに継母はわたしには口うるさく言っていたのに、小学3年生のめぐむがいくら食べ物を残してもしょうがないと叱るところを一度も見たことがない。食事に関してだけではなく全般的に彼女は妹には甘いのだ。それは父にも言えることなのだけど。
 単なるわたしの嫉妬と言えばそれまで。おとなになれ、と言われればそれまで。だけど頭の中では分かっていても、そんなに単純な問題ではないのだ。少なくとも今のわたしにとっては。
 つい考えてしまうことがある。もし母だったらどうするだろう、って。萌が偏食していたら怒るだろうか。それとも彼らと同じように甘やかすのだろうか。終わりのない空想が日々重ね積もっていく。
 母にはもう5年も会っていない。わたしが中学に入学した頃、制服を着て一緒に食事をしたのを最後に母はわたしの前に姿を現さなくなった。離れて暮らし始めても、1週間もしくは2週間に1度は必ず母は電話をくれていたのに、あの食事以降電話はぱったりと途絶えてしまった。もちろん、こっちからも何度か電話を掛けたけれどいつも留守番電話で、いつの日からか電話番号すら使えなくなってしまった。それでも新年には毎回年賀状がわたしの元に届いた。それが最後の希望だったのに、その年賀状もついに今年はこなかった。もしかしたら、と暑中見舞いや残暑見舞いを期待したが、結局夏が過ぎても母からの便りはなかった。
 継母が出かける頃を見計らって自宅に向かっていると、彼女の運転する車が通りの向こうに曲がって行ったのが見えた。安心して家に入り、急いでこの家を出る支度をする。とりあえず荷物は少なめに、必要最低限にまとめる。一応受験生なので勉強道具一式持って行きたいところだが当然無理なので、一問一答形式の小さな冊子だけを数冊鞄に詰める。順調にいっていればこの春から弟も高校生なはずだから、必要であれば彼に借りようと思った。
 吟味を重ねて用意したつもりだけれど、中学の修学旅行の為に買ってもらった3泊4日用の鞄はこれでもかというほどパンパンになった。わたしは最後に机の引き出しから1枚のハガキを取り出した。5年前、母との最後の食事のちょっと前に届いた年賀状。その翌年も年賀状はもらっていたが、住所が入っているのはこれが最後なのだ。なくさないように大事に内ポケットに入れ、部屋を出る。長期間は無理だとしても、一応しばらくは帰って来ないつもりで部屋はきれいに片付けたし、見られて困る物は見つかりにくい場所に保管し直したり処分した。これで思い残すことはない。そう思いながら、なにか持って行ける物はないかとキッチンに行くと、リビングのソファーにちんまりと座っている妹の姿が見えた。一瞬見ない振りをしようとしたがばっちり目が合ってしまったので、仕方がないと腹を括って話しかけた。
「付かぬ事をお訊きしますが、なんで萌さんは家にいらっしゃるんですか?」
 一応わたしの妹。腐っても彼女は年下。例えそれが不本意でもわたしが敬語を使う理由があるのです。
「そのままそっくりあなたにお返ししますが」
 ほらね。こんなの小学3年生が言う台詞じゃない。かわいげの欠片もない、しかも上から目線のような態度。腹が立つったらしょうがない。
 会話はそれ以上進まなかった。わたしがなにかを答えることもなかったし、ましてや萌からなにか言い出すこともなかった。わたしは戸棚にあったクッキーと冷蔵庫の中に入っていたチョコレートをいくつか袋に入れた。これでお腹が空いても買わずに済む。今からの旅費を少しでも減らそうと、ついでに空のペットボトルにお茶も注いだ。
「この事、お父さん達に言う?」
 かわいくなくても妹、腐っても妹。一応訊いてみるが、「なにが?」と適当に返された。彼女は全くわたしに興味がないようだ。ここまでだったら逆に清々しい。思わず、ふふっと笑いそうになった。玄関を出て鍵を閉めようとしたら、ゆっくりと扉が開いた。
「じゃあ」
 その一言だけ言い終わると、扉はまたゆっくりと閉まった。
 いってらっしゃいでもさようならでもなく、彼女がくれたのは「じゃあ」。受け入れるわけでもなく突き放すわけでもなく、なんだか萌らしくて、今度は本当に笑ってしまった。




lovin' you   *   02.   





inserted by FC2 system