*02. 孤独と偶然


 バスに揺られて2時間ちょっと。それから電車に乗って15分くらい。駅を出て歩き始めてもうどれくらい時間が経ったのだろう。
 わたしが持つ母の居場所を見つける唯一の手掛かりである年賀状に書かれた住所を頼りにやって来たものの、なかなか目的の建物アパートが見つからない。今探しているのは、きっとわたしがいる時に暮らしていたアパートだ。おぼろげな記憶だが、この周辺を歩いていると見覚えのある風景が度々目に入ってくるのだ。その自分の勘を頼りにもう長く歩き回っているのだが、辿り着くどころかいつの間にか探している地名ではない場所に来てしまった。
 駅を出る際に駅員に何度も確認したのでこっちの方向で合っているはずなんだけど。自分が方向音痴だということは充分熟知していたつもりだが、ここまでひどいと情けないと悔しいを通り越してただ泣けてくる。
 左にしている腕時計を見ると4時を過ぎていた。急がないと冬は日が暮れるのが早い。
 ふと周りをよく見ていると、近くに学校があるのか、見慣れない同じ制服を着ている生徒達がこの道に溢れていた。誰かに道を訊こう。本来ならば、迷ったと悟った時点で訊くべきだっただろうが、恥ずかしさと緊張と不安でなかなか他人に声を掛けることができなかった。だけど、もうそんなことは言っていられない。意を決して、斜め前にいる女生徒に話しかけた。
「すみません。ちょっと道を訊きたいんですが」
 声を掛けるならなるべくなら話しやすい女の子が良い。そしてあわよくば1人で歩いている子。そんなわたしの密やかな望みを叶えてくれた人物が目に入ってきた。
 お願いします、教えてください。あなたが頼みの綱なんです。住所を見せようとハガキを彼女の前に出そうとしたら、紙面に目もくれることなく、「分かりません」とその女生徒はさっさと先を行ってしまった。
 茫然とした。都会の人は冷たいってよく聞くけれど、ここは東京でも大阪でもない、地方の1地域。わたしの地元よりは人口が多いかもしれないけれど、それでもあんな風にあしらわれたことがショックだった。
 さっきの出来事がちょっと軽いトラウマになりつつも、わたしはもう1度道を訊くことを試みた。そうでないと、また継母の元で暮らす生活に戻らなければならないからだ。
「すみません」
 ちょうど目の前を通りかかったちょっとギャル風の女子2人組に恐る恐る話しかけてみると、2人は同時に振り返った。
「ちょっと道を教えてもらいたいんですが」
 逃げられる前にと、さっきの教訓から急いでハガキを見せるが、2人とも首を横に振った。
「ごめんね。あたしら地元ここじゃないからよく分かんないです」
「そうですか」
 ありがとうございました、とその場を立ち去ろうと思ったら、ショートヘアの子が「ちょっと待ってね」と言い、突然大きな声で誰かを呼び始めた。
乃木のぎくん、乃木ーっ。ちょっと来て」
 同じ制服を着た男女が大勢歩いている中でどの人に声をかけているのだろうと不思議に思っていると、彼女の呼びかけに答えるかのように後ろから声がした。
「なに? どうしたの?」
「あんたこの辺詳しいでしょ。ちょっと道訊きたいからこっち来て」
 彼女達の目線の先にいた男子生徒が駆け足でこちらに向かって来る。
「これなんだけど」
 紺のカーディガンを着たギャル子ちゃんがわたしの葉書を彼に見せると、「ああ、ここね」と爽やかそうな男子の口角が少し上がった。「この子?」と目で2人に訊いていたので、わたしは彼に小さくお辞儀した。
「すぐ近くだし、一緒に行こうか」
「えっ、でも」
 そう言ってくれるのはありがたいが、迷惑じゃないだろうか。わたしが濁した言葉を読み取ったのか、彼は女子生徒2人に別れを告げ、「行こうっか」と歩き出した。
「すみません。なんかご迷惑をかけて」
 すたすたと歩く彼から離れないように必死に歩き、ようやく信号に引っかかった時に彼の隣に並ぶことができた。
「良いですよ。おれもこっちの方来る予定だったので」
 「用事?」とわたしが首を傾げていると、今日はスーパーの特売日だと彼が笑った。
「おれ主婦業してるんです」
 今からスーパーの特売に行く制服姿の男子高校生。細身で長身で、髪もやわらかそうな爽やかな今時男子なのに、主婦業をしている。なんだか似合わなくて思わず吹き出しそうになる。「どうかした?」と彼は訊ねるけど、わたしはただ首を横に振って、勝手にツボってしまった笑いを堪えるのに必死だった。ウチのクラスにはいないタイプの子だな。
 信号、と言って彼はまた歩き出す。今度こそは間ができないよう小走りになっていると、こちらを振り返った彼が「すみません」と突然謝った。
「歩くの早かったですか?」
 もちろん頷くことはできず、「いえ」と控えめに答えた。
「不審がられて後ろを歩いてると思ってたけど、おれが歩くのが早かっただけだったんですね。気が付かなくてすみません」
 向こうぺこりと頭を下げる為、こちらも頭を下げる。こちらこそすみません、と。
「えっとですね、さっきの住所はたぶんその角を曲がって突き当たりの所だと思います」
 確かにわたしが持っているハガキの住所と電信柱に記してある住所は一致していた。とうとう辿り着いたのだ。
「ありがとうございました」
 気を付けて、と彼と別れる。ほんの少しの時間だったけど、彼にはすごく感謝している。あんな男子がクラスにいたら、もしかしたら恋をしているかもしれない。そんなことを考えていたら、見覚えのある建物が目に入った。
 懐かしいアパートだ。以前と比べてちょっと古惚けた印象は受けるけれど、確かにわたしはここにいた。  体が覚えているってこういうことを言うのだろうか。葉書を確認しなくても、真っ直ぐ201号室に向かっていた。しかし、表札には知らない名前があった。両親が離婚した後、母は神田かんだから旧姓である小野寺おのでらに変わった。だけど、今目の前にある名前は母の旧姓でもましてやわたしの苗字の神田でもなく、木村とあった。
 一応呼び鈴を鳴らしてみるが、中から返事は戻ってこなかった。集合郵便ポストのところで201号室の郵便物を取っている女性を見かけた。母ではない。
 路頭に迷うとはこういう事だろうか。
 母はいない。もうわたしには戻る場所がない。
 行きはあれだけ迷ったのに、帰りはすんなりと駅に戻ってしまった。帰りたくないというわたしの気持ちが駅に導いたのだろう。
 バス停の前に立っている人に見覚えがあった。さっき道案内をしてくれた人だ。手にはさっきは見なかったビニール袋がある。きっとなにか買ったのだろう。わたしが彼の方に向かっていると気付いたのか、向こうが先に声をかけてくれた。
「見つかりましたか?」
 わたしは首を振った。
「さっきはありがとうございました。助かりました」
 一応笑顔を作ってみるが、「でも見つからなかったんでしょ?」という彼の言葉に反応してしまい、顔はもう言うことを聞かなかった。
「アパートはあったんだけど、その人はもういませんでした」
「そっか。残念でしたね」
 日はすっかり落ちてしまい、街灯がない場所は薄暗くて数メートル先は真っ暗でなにがあるのか見えない。  帰りたくない。もうあの家にはいたくないから。でも所持金もわずかでホテルに泊まる余裕もなければ、このままここにいても母の手掛かりがないんじゃどうしようもない。結局わたしの居場所は見つからなかった。
「今から帰るんですか?」
「ですね。本当は帰りたくないんですけど」
 絶望だ。もうどうにでもなれ。そう自暴自棄になりながら放ったわたしの本心に彼の眉間に皺が寄った。
「なんでですか?」
 彼がそう訊ねた瞬間、バスが到着するアナウンスが聞こえた。
「このバスに乗るんですか?」
 はい、と少し遠慮がちに彼が答えた。
「本当にありがとうございました」
 気を付けて帰ってくださいね、と彼がバスに乗り込もうとする。本当に彼は律儀で爽やか、さぞかし学校でもモテるだろう。クラスメイトだったら1度くらいは付き合いたいとか思っちゃうのだろうか。……クラスメイト?
「あの、失礼なのは承知なんですが、小野寺おのでら亮太りょうたって知りませんか?」
 高校生。全国に何万人の高校生がいるのだろうか。弟の亮太と彼が高校生っていうなんの特別もない共通点だけなのに、彼に訊かずにはいられなかった。
 「他にお乗りになるお客さまはいませんか?」と車体の外に付いたスピーカーからバスの運転手の声が聞こえる。
「すみません、変なこと言っちゃって。知ってるわけないですよね。あっ、バス。乗ってください」
 乗りますちょっと待ってください、と運転手に伝えようとしたら今度はわたしの方が掴まれた。「発車します」と運転手のアナウンスの後、ジーっという音のがしてバスのドアが閉まった。
「すみません、わたしのせいで。バス行っちゃいました」
「知ってますよ」
「へ?」
 良いですよ大丈夫ですよ、といった類の言葉を言われるかと思っていたのに思いがけない一言に、思わず間抜けな声が出てしまう。
「知ってますよ。小野寺亮太くんでしょ」
 耳を疑う。知ってる? 亮太を?
「小野寺亮太って、一応言いますけど芸能人じゃないですよ。芸能人にそんな名前の人がいるかどうか知らないけど」
「はい」
「わたしが探している小野寺亮太っていうのはですね、5月8日生まれの牡牛座で、確か血液型はO型で、あと今16歳でたぶん高校生なんですけど」
「はい」
「あと、ナスが好きじゃなくて」
 思い出せるだけの弟の亮太に関する情報を次々と口にする。その度に彼はただ微笑しながらわたしの言葉にやさしく相槌を打っていた。
「誕生日は知らなかったけれど、知ってますよ。ちなみにナスは最近食べれるようになりました。あと右に泣きぼくろがあるでしょ」
 彼は自分の右目を指指していた。泣きぼくろ? そんなのあったっけ?
「亮太のこと、本当に知ってるの?」
 はい、と彼は頷いた。彼の言うことを信じて良いのだろうか。だってこんな都合が良い偶然ってあるのだろうか。疑う気持ちが晴れないまま、わたしは彼と一緒に次に来たバスに乗った。都合の良い偶然、というものに賭けてみようと思った。




01.   *   lovin' you   *   03.   




  


inserted by FC2 system