*04. 再会

「苦手なものってありますか? なにか食べられなかったりとか」
 この人はいつも唐突に話し出すのだろう。そう思ったのは夜7時過ぎのことだった。
 質問の意図がよく分からず特にないと答えると、「それじゃあ、今日はパスタにしましょう」と彼は言った。
「良いです、わたしは」
 透かさず断ったものの、「お腹空きません?」という彼の問いに便乗するかのように思わずわたしのお腹の音が鳴りそうになった。確かに朝ファーストフード店で簡単に食べて、それから高速バスに乗っている間にチョコレートを2、3個食べただけで、普段わたしが食している量からすれば今日食べたものなんてたった1食程度にも満たなかった。
「遠慮はしないでください。2人分作るのも3人分作るのも変わりませんから」
 彼があまりにもにっこりと微笑むから、つい「お願いします」と頷いてしまった。整った顔の上に他人に有無を言わせなくさせる雰囲気。あれはある種の犯罪だと思う。少しだけ待っててください、とキッチンでなにやら作用を始める彼にこの際甘えることにした。本当に亮太やお母さんが戻って来るのか、もしくは怖いおじさんが来るのかは定かではないけれど、ここまで来たら誰かに会うまでとことん居座ってやろうと腹を括った。
「亮太は何時頃帰って来るんですか?」
 あくまでここは小野寺家ということを仮定に訊ねる。時計の針はもうすぐ7時半になろうとしており、とっくに日も暮れて外は真っ暗だ。
「部活しているのでいつも帰りは8時過ぎです」
「部活?」
「小野寺、バスケ部に入ってるんですよ」
 亮太がバスケ? 初耳だし、同い年の子の中でも飛び抜けて小さかった亮太がバスケットボールだなんて全く想像できない。
「ここに写真がありますよ」
 わたしが今まで近付かなかったキッチン付近のカウンターには、母と一緒に写った亮太の面影がある少年やユニフォームを着た見知らぬ男子の写真がいくつか写真立てに飾られていた。
「これ本当に亮太?」
 わたしの声に反応し、彼が少し体を乗り上げて一緒に写真を確認した。
「そうです。その隣がゆきさん。あとは、今手に持たれている写真に写ってる人達は小野寺と同じチームの人ですね」
 母はなんとなく分かるが、顔を近付けてまじまじと写真を見ても目の前で笑っている男子は全く昔の亮太と結び付かない。きっと街中でこの青年に会っても絶対気付かないだろう。
「大きくなったんだね。顔も全然違うし」
 何年振りだろう。久々に見る亮太の顔。最後に会った時よりも顔付きがぐんと変わっている。なんて言うか、すごくおとなびている。
「身長は中3から伸びたそうですよ。本当はバスケやりたかったのにコンプレックスでずっとバレー部にいたって言ってましたよ」
 彼の言葉通り、中学生の頃らしき写真では亮太はバレーボールを抱えている姿がいくつかあった。最後に会った時は野球選手になるって言ってたのに。こどもは軽薄だ。きっと漫画やアニメの影響でころころと変わったのだろう。
「バレー部も変わんないじゃん」
 身長が低ければバレーもバスケも大して違いはないだろうに、と思わず笑ってしまう。相変わらず亮太はどこか抜けてるんだろうな。
「亮太とは知り合って長いんですか?」
「いえ、今年に入ってからです」
 そのわりには亮太のことをよく知っている気がした。まるで長年付き添っているパートナーのような。
「ご飯できましたけど先に食べませんか?」
 わたしは首を横に振り、まだ大丈夫だと答えた。写真を見て少し和んだとは言え、まだご飯が喉を通る状態じゃない。第一、亮太がここに住んでいることは分かったけれど、この人を信用して良いのかどうかはまだ分からない。
 ぐう。
 まるでアニメの効果音かのようにはっきりとお腹の音が聞こえた。もちろんわたしの体から。わたしのバカ。今ご飯はまだいらないって彼に言ったばかりなのに。
「お腹空きませんか? もう8時だし、小野寺もはっきりと何時に帰ってくるか分かりませんし。それにおれももう我慢できないんで」
 わたしに気を遣ってくれたのだろうか。彼はわたしの返事を待たずにキッチンから良い匂いのするお皿を2つ運んできた。
「これカルボナーラ?」
「はい。アボカドを使ったカルボナーラなんですが、アボカド大丈夫ですか?」
「あっ、うん。むしろ好きです」
 良かった、と彼が笑った。一瞬わたしが戸惑ってしまったのは、男の子なのにアボカドとパスタを絡めるなんてお洒落な料理を作るのにただびっくりしたから。パスタの他にもサラダと温野菜があって、見た目を裏切ることもなく全てとても美味しかった。
「おごちそうさまでした。全部美味しかった。普通にお店にありそうなものばっかりで、本当に料理上手なんだね」
 わたしがそう褒めると、謙遜するわけでも天狗になるわけでもなく彼はただ「ありがとうございます」と嬉しそうに言った。
 満腹になったせいかさっきよりもリラックスしたわたしは少し爽やかくんと他愛のない話をした。だけど隣の住人には3人愛人がいるだとか激安スーパーについてなど本当に他愛のないことばかりで、わたしは彼が一体誰なのか最後まで訊けずにいた。
 ピピピピピッ。なにかのアラーム音が鳴ると、「すみません。ちょっとお風呂入れて来ますね」と言って彼はリビングを出て行った。
 いつの間にかもう9時を過ぎていた。いくら部活であってもちょっと遅過ぎではないか。なんだかまた急に不安になってきた。ふと周りにはわたしの知らない物ばかりだということを再認識すると、急にここに自分がいることに違和感を感じ始めた。
「今夜どうします? 泊まって行かれますか?」
「帰ります」
 バスタオルを抱えて戻って来た彼への返事は即答だった。
「え?」
「やっぱりわたしがここにいるのって変だと思うし」
 決して彼に対して恐怖感を抱いているからではない。もちろん全く警戒していないと言えば嘘だが、今わたしがこの家を去りたいのはそういう理由ではなく、単純に自分が知らないことに溢れたこの部屋にこれ以上居座り続けるのがつらくなってきたからだ。
「ちょっと待ってください。もう遅いので1人で外に出たら危ないです」
「どこかでタクシー拾うし、ホテルに泊まるので大丈夫です」
 本当はそんな余分なお金はない。だけど口からどんどん言葉が出てくる。とにかくここから一刻も早く逃げたい。そんなわたしの気持ちとは裏腹に、爽やかくんは困った顔をした。
「せめて亮太が帰って来るまで、亮太と会うまでここにいてください」
「けどいつまで経っても亮太は帰って来ないじゃないですか」
「なにしてんの?」
 わたしが声を荒げたと同時に、リビングの入り口に1人の男子が立っていた。その声に全く聞き覚えがなかったが、その顔には見覚えがあった。
「……誰?」
 わたしよりも大きなその男の子はちょっと気まずそうな顔をしている。思わず我慢できなくてわたしが「亮太」と呟くと、亮太は少しだけ眉間に皺を寄せた。きっと必死で思い出そうとしているのだ。小さい頃人見知りだった亮太は、見知らぬ人を前にするとよく眉を寄せていた。今思えば幼いながらに自分の態度で相手を傷付けまいと必死に自分の気持ちを誤魔化していたのかもしれない。やっぱり間の前の男の子は亮太だ。姿が違ってもわたしの知っている弟だった。しかし亮太は全くこちらに気付かず、わたしの隣にいる彼に目線を配らせていた。
「おかえり」
 最初に言葉を発したのは彼だった。
「今日遅かったね。部活、長引いた?」
 ミーティングだった、と亮太がこちらに遠慮がちに言った。
「なにも言わないの? せっかくお姉ちゃんがずっと待ってたのに」
 姉ちゃん?
 声には出してないが、いかにもそんな顔をしていた亮太の後に、わたしの方がつい「お姉ちゃん?」と訊き返してしまった。
「姉ちゃん……めーちゃん?」
「なんで知ってるの?」
「小野寺のこと待ってたんだよ」
 3人のバラバラの声が室内に響いた。懐かしの弟を目の前に嬉しくてたまらないのだが、1度も自己紹介をしていないのになぜ彼はわたしが亮太の姉だということを知っているのだろうか。
 嬉しさと驚きでどうしようもないわたしに亮太が抱き付いてきた。わたしも反射的に思いっきり亮太を抱きしめたけれど、頭の中では混乱していた。一体どういうことなのだろうか。


 亮太は食事を、わたしは爽やかくんが入れてくれたお茶を飲んでいた。
「本当に分かんなかった。マジで日向ひなたの彼女かなんかだと思ってたもん」
「日向?」
「こいつこいつ。日向って言うんだけど、あれ?」
「あの、彼は、えっと、どなたですか?」
 今更だけど、わたしは彼の名前も知らなかった。「なに知らないの?」と亮太が驚くが、こっちからすれば人の家の鍵を持っている人に易々と自分の名を明かすだなんて恐ろしくでできない。
「遅くなりましたが、乃木のぎ日向と申します。小野寺とは同じ高校です」
 出会った頃と同じように深々と挨拶され、こっちも返す。
「えっと、神田かんだ 佑芽ゆめと申します。苗字が違うけど亮太の姉です」
 この光景を見ていた亮太が、「今までなにやってたの?」と笑う。確かに亮太の言う通りだ。だけど、亮太が帰って来なければ互いに名乗らずまま別れていたかもしれない。
「でもよくここにいるって分かったね。昔住んでた家は引っ越したのに」
「偶然、その日向くんに会って助けてもらったの」
 ふうん、と亮太は少しつまらなさそうに相槌を打った。
「お母さんはまだ仕事? 遅いね」
「母さんはたまに帰って来るよ」
 「たまに?」とわたしが訊き返すと、一緒に住んでないからと亮太が言った。
「一緒に住んでない、ってどういうこと?」
 離婚の次は息子との別居? どれだけ別れるのが好きなのかと頭を悩ませるが、亮太はなんともない顔をしていた。
「そのまんま。母さん仕事の友達んとこにいるの。なんか看護学校の時に仲良かった友達と再会したらしくて。だから今おれここでほとんど1人で暮らしてんのよ」
 あっ、と亮太が言葉を濁す。正確には2人暮らし、と思い出したように日向くんの方を見て付け加えた。
「じゃあ日向くんの言ってた主夫業ってこのこと?」
 そんな感じだと答える日向くんの横で亮太が「しゅふ業」と笑っている。きっと頭の中で主夫ではなく主婦と漢字変換されてツボったのだろう。
「そう言えばさ、めーちゃんどうしたの? なんでここにいんの?」
 どう答えようかずっと考えていた質問がついにきた。継母と喧嘩して家を飛び出してきた、だなんて弟を困らせるようなことは言えない。
「ちょっとしばらくこの家に置いて欲しいんですけど」
 理由は言わず率直に要件を述べると、「家出?」と亮太が訊き返してきたから、「そんな感じです」と頷いておいた。
「めーちゃんがそんなことするなんて意外かも」
 わたし本人もそう思っています。
「今からどうしよう」
 どうしよう。お母さんを頼ったつもりだけど、2人で暮らしてるのに邪魔するわけにはいかない。
「ここにいれば良いじゃん」
 なんともない顔でさらりと亮太が言った。
「だってここはめーちゃんの家でもあるんだし」
「でも……」
 ちらりと日向くんの方を見ると、「おれには権利がありませんよ」と少し困った顔をして笑った。
「そうだよ。いなよ。母さんもしょっちゅう帰ってくるわけでもないし気が楽でしょ? けどむしろ連絡した方が良い?」
 ううん、と首を振る。いないならいない方が助かる。母を頼ってここまで来たが、実際に母を目の前にしたら叱られて実家に戻されるのが目に見えているからだ。
「だけど、本当に良いの?」
「良いに決まってんじゃん」
「ありがとう」
 亮太と一緒にいれるんだ。ようやく肩の荷が降りたようにほっとした。



03.   *   lovin' you   *   05.   






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